giveしたからってgiveしてもらえるとは限らないし。

高校までは自分の都合の良さしか求めなかった。
大学生になって相手の都合に合わせて助けてあげることを覚えた。
それと同時に、助けてあげたにも関わらず自分が困った時助けてくれない悔しさも覚えて、鬱憤を晴らすため自分が同じ事することもあった。
向こうも頼んだつもりなかっただろうにね、でも私にとって「優しくすれば優しさが返ってくる」ていう現象は凄い新鮮だったし、これで立派な人間になれるんだって本気で信じてた、ある意味子供の時より頭の悪い時期があったわけだ。

でもって質の悪い事にその名残が今でも続いていた事に気付き軽くショックを覚えている。

一緒に関わり続けたい人達と「協力」という形で関わり続けたからと言って、自分の現状に協力してもらえる日が果たして来るのだろうか、と不安になった。

「そこそこ信用してもらえてるんだろうけど、便利屋とも言えなくないよね」って言葉で、私の中のモヤモヤが最悪な形で晴れてしまった。


障害者の母を持つから諦めの良い善人だなんて糞みたいな事思わないでほしいし、本当は母が転ぶのも泣くのもどうでも良いし今すぐそっちに出かけたい気持ちで一杯な事を理解するだけじゃなくて、どうかgiveで返してほしいし、私もそのgiveをいざ投げてもらえたその時は本気で受け止めたい。てか、受け止めるし絶対。


報われない片思い的な気持ちが続いてます、どとっちです。

タイトル関連でポジティブな出来事も先日ちゃんと起こりました。

以前音信不通になって結局お手伝いとして関われなくなった某劇団のお芝居を観に行った所、帰りがけお客様の対応で忙しかったはずの主宰さんが駆け寄ってきてくださり、当時の事についてお話する機会に恵まれました。

このまま気まずい状態にならなくて良かった。

ちょっと嫌な思い出があるからって面白いと分かっている芝居を見逃すのは嫌だし、それをちゃんと観に行ったから主宰さんも打ち明けてくださったんだと思うし。

giveをしたのにgiveしてもらえないのは辛いけど、giveを拒絶される方がもっと辛かったなって事を思い出したら、大したことじゃないのかもしれない。。。と思ってみる事にしてみます。

あーでもやっぱ悔しいな、死ね死ね。嘘ウソ。