お互い様やねん(長文なれど大した話にあらず)

綺畸の同期達とご飯食べてカラオケってきた。
弱冠マニアック?な選曲の傾向があったけど久々に楽しかった♪

ここ最近また人間関係について悩みがちだったけど、懲りずに仲良くし続けてくれる人達とのやりとりがまるでリハビリのような効果をもたらしてくれたせいか、少しずつ人に対する接し方の極意が見えてきた気がする。
何とか突破口を見つけられそうな気がして嬉しいから、長いけど書きます。

お互い様、という気持ち。
相手を許せば、自分も許されるという感覚。


最近どうも、相手から言われたキツめの言葉に敏感に反応するようになっていた。
なんで人の都合や気持ちを考えずにこんな事が言えるのだろうかと。

でもよくよく考えてみれば、自分が言われて傷ついた言葉よりももっとキツイ言葉を自分は誰にも彼にも投げつけていた時期があったなと、気付いた訳である。

相手の癇に障る言葉は幾らでも思いついた、かつて自分が何度もぶつけられたから。
そして皮肉なことに、その経験は私なりの演劇人生に大きく貢献もしている。

相手の理解できない部分を許さない代わりに、自分の理解してもらえない部分を許してもらおうとは思わないひねくれていた時期が確かにあった。別にそんなの私だけじゃないだろうけど。

敵になり得ない優しい相手を許さないことで、かつて自分を許してくれなかった意地悪な人達へ復讐しているつもりだった。
自分が許されてる実感が少なかったからといって、周りの価値観や考え方を許すことが出来なかった自分はやはり幼かったと思う、大切な人達だったはずなのに。

ある程度大人になった今ではそれがわかるから、尚更自分で自分が許せなくなって本当に厄介になる、というツケが回ってきている。

だからちょうど母が倒れた時期を好機とし、度々大勢との交流を避けるための都合の良い理由にしてきた。1対1〜2とかならまだ楽だったけど。

またしばらく時間が経って、かつての私と同じような言い方をする人達の例を幾つか見てきて、ちょっとずつ見えてきたものは、「お互い様」という許し方だった。

自分が他人が、どんな言葉で喜んでどんな言葉で怒りを覚えるかは結局その人達の経験や環境で異なってくる。

私が相手の言う事を不快に感じた分、相手もきっと私の言葉に多かれ少なかれ反感を買ってるはずだ。

逆に言えばそれは、相手が言った不快なことでも私は許すべきだし、私が言った不快なことも相手は是非許してあげるべきだと、そういうことではないだろうか。

私が許しても向こうが許さないというパターンがあっても、それは許すことを知らなかった幼かった自分が目の前にいる、とだけ考えれば良い話だ。許してくれなくても、きっと愛おしくなる。

不快に感じたのはお互い様と思っていれば、相手を恨んだり憎んだりすることはないし、自己嫌悪に陥ることもない。

この苦しいスパイラルから抜け出すには、お互い様精神が必要なのだと、切に思う。
まぁ、言うのは簡単だけど完全に実行できるには10年以上かかりそう(笑)


しょっぺぇ話の後のお目汚しに、本日のネイル↓↓

干支柄なんて1月中しか通用しませんので。。
目がストーンでギラギラしてちょっとエイリアンみたいですが、縁起物のつもりです!